昭和40年01月27日 朝のご理解



 神様のお恵みをお恵みと悟らしてもらい、おかげをおかげと分からせて頂く生活が、有り難い信心生活だと。そのおかげの実感と、お恵みの実感というものが、私どもの信心のいうなら度合いでもある。どうでしょうか。おかげの実感がどの程度にあるか。恵まれておるとその実感が、どれほど私をして、そのお恵みに応える、おかげに応える、神恩いわゆる報謝の生き方と生活というものが出来ておるかと。
 感じておっただけ。感じて居るというても、それに応える生き方が出来ていないなら、それは応えん。本当に分かっておると言えないと私は思う。おかげを、おかげと感じる。本当におかげ頂いて勿体なし。お恵みに浴させてもらう。お恵みに浴させて頂いて有難とし。というような、その有り難いとか、勿体ないとかという心がです、生まれてこない。その有難い、勿体ないの心が。
 じっとしてはおられんという躍動的なものにまでなって、それが信心でお参りになったり、ご用になったり、または家庭生活、日常の家業の行の中に、現されてこそ本当の有難い生活と言えるのじゃないでしょうかね。不平不足の生活。わがままな生活。いわゆる実意を欠いだところの生活。もしそれがそうした生活であるとするならば、神恩を、神恩と頂いていないのであり、おかげをおかげと実感していないのであり。
 お恵みをお恵みのものとしていない証拠に、そんなお粗末ご無礼な生活になってくるわけなのです。そこんところをひとつ、本当に解らして頂いて、自分の頂いている信心が、どの程度のものかということを一つ、解らして貰わなきゃいけん。ねえ。おかげといい、お願いをする。お願いをしたことが成就する。そのことだけがおかげのように思うておる。それでは何時までたっても、神恩報謝の生活なんて出来はしません。
 実を言うたらおかげの中にあるのであり、お恵みの中にあるのである。それを気付かしてもらい、それを分からしてもらう。そこに信心の教えがあると思う。そこで私は、そのおかげの実感を、いよいよ頂かしてもろうて、有り難い生活が出来るおかげを、頂くためにです、私は、お気付けをお気付けと悟らせてもらい、お試しをお試しと実感さしてもらい、なるほど、難は難ではなくて、難はみかげだなという、おかげ体験を、信仰体験を積んでいかなければならないと思いますね。
 「お気付け頂いとるじゃろうと思います」と言うてお気付け頂いておっても、そのお気付けをどう気がついたか。気がついておらなかったら、それは何にもならんじゃないか。お気付けと思うたら、どういうお気付けを下さるのかということを、私は分からしてもろうて、ハハア、ここのところを、お気付け下さったんだなというて、改まって行く生活の中からです、ほんとに有り難いというおかげが頂かれる。
 お試し、いつお試しがあるやらわかりませんぞ、とおっしゃる。いつお試しがあるやらわかりませんから、常日頃、しっかり勉強しとかなければならない。そしてお試しがあっても、そのお試しを、見事に及第さしてもらえるだけの力をつくっておかなければならんというところに、いわば信心のけいこがある。そしてそのお試しを、見事に及第さして頂いて、初めて自分の信心が確かに、進んでいきよるなあ、高まっていきよるなということが分かる。ね。
 試験に合格すれば高校に入られる。試験に合格すれば大学に入られる、といったようにです、自分は、ハハア、今高校に入っておるんだな、大学に入っておるんだなということがわかる。その試されながら落第ばかりだったら、いつも高校なら高校、中学なら中学だけで留まって居らなければならないでしょう。そしてはじめてです、ねえ、お気付けといえるのであり、お試しと言えると私は思う。
 お試しを受けとると思いよりますというて、思うとるだけではなぁんにもなりません。お気付け頂いておるじゃろうと思いよります、と言うたところでは、それでは何にもならん。お気付けの値打ちも、言わば、お試しを下さる神様のお心のことも分からん。成程、難はみかげとおっしゃるが、または難あって喜べとおっしゃるが、ハアー、難があるたんびに喜ばしてもらう。
 喜んでそれを、難をみかげにしていけれるだけの信心ができてからですたい、はじめて分からせて頂くのが、難ですらが、難と思うておったことですらが、おかげであるのであるから、でないときはもっともっと、おかげを頂いておるんだという実感が、ほんとにここに(胸をたたく音)頂けてくるようになるのである。そうでしょうが。平穏無事であるということ。おかげで順調にいっておるということがです。
 あらゆる一切の人間氏子のためにお恵み下さっておる、お恵みのものがお恵みとして、ほんとに実感できるのである。だから有り難いのである。だから勿体ないのである。その有り難いのが、勿体ないのが、家業の行の上に、お参りの上に、ご用の上に、生き生きと現わされてくる生活。そういう生活を私は、信心生活だと私は思う。痛い痒いがなおったのが有り難いのではない。
 いつも健康(まめ)なのが有り難いのだという幸(こう)なのである。平穏無事であるということがです、有り難いということが分かる。しかも、実感をもってわかる。今日の御理解はそこなんです。いわゆるおかげの実感の中に、日日生活さして頂くということが人間の幸せであり、神様のお喜びであるということ。ためにはです、先ず、理屈抜きに、あなたお恵みの中にあるんですよと。おかげの中にあるのですよと。
 というその理由を聞かせてもらえばです、そりゃもうそうですたいね、ということがわかる。けれども、そういう意味あいでの、分かったんでは、実感的に次の躍動的な、いわば信心生活が出来ない。そこで私は、それをほんとに実感のある、有り難い勿体ないと、おかげ頂いておるなあというその生活のできるおかげ頂けるためにです、ひとつ、お気付けをお気付けとわからせてもらい、お試しをお試しとわからせてもらい。
 始めて、なるほど、難はみかげであるということがわからしてもらう。いつお試しがあるやらわからんから、常日頃、信心修行させてもろうて力を受けておる。そこに信心のいわば段階というものが、一段一段進んでおる自分を自覚する。お気付けを気付かせてもろうて、ハハア、ここのところを改まれと、神様はいうてござるなあと。ここのところを右に行けとおっしゃっておるの、左に行けと教えておられるのだなと。
 いいやここんところでは回れ右をしなければならんのだという。気を付けて下さる。そのことを解らしてもろうて、右にも左にもたがわぬ様にさせて頂いて、始めてお気付けということが言えるのじゃないかだろうか。そういう信心させてもろうて始めてです、ね、もし難儀という、難儀と感じるようなです、痛い痒いに至るということでもです、それをそれと悟らせてもろうて、それを難をみかげにしなければ、難は難です。
 その難のおかげでこういうおかげを頂いたというおかげ。そしてそこでわからせてもらうのはこういう難儀の中、こういう難儀ですらが、神愛だったとわからしてもらう。そうでしょう。お気付けもお試しも、いうならその難儀と思っておったその難儀すらも、神愛であると分からしてもろうた時です、平穏無事であるということは、いよいよ神愛の中にあるということが実感できるわけでしようが。ね、
 その神愛にこたえまつるところの、日々の家業であり、生活ということになってくる時にです、有り難い勿体ないという、実感のあふれるような有り難い生活が出来るようになる。私は、ここのところを頂いていかなければならん。みんなが、お気付け、お試しということを沢山つかいますけれども、それにお気付けをお気付けと悟らぬと同じように、気付けられてもお気付けと言うておるだけで。
 どこを気付けられたのと言うたっちゃ分かっとらん。いいえもう自分の心にゃ、ちゃんとわかっとりますと。わかっとるならば、その通りに改まっていってはじめてお気付けである。ハア、今度のあのお試しのときです、本当にあそこをスキッとしてお試しを受け抜いていった。ああいうのが合格というのであろう。ハア、このたびは見事に落第した。そこで、いわば落第してもかまわん。
 落第の実感を解らしてもろうてです、この次には落第してはならんというて勉強に怠りない、勉強さしてもらい修行さしてもろうてです、次のお試しには見事に合格したというおかげ、実感が出来て始めて、信心の一段一段進んで行く所の実感というものがある。そこに難儀の、難儀即おかげ、または神愛と、感じさしてもらう。その難儀な中にすらそうしたいわば神様の特別の働きというか、神愛の中であるのであるから。
 平穏無事であるということはいよいよもって、お恵みの中にあるんだという、いわば丁度お風呂の中にでも入っておるような感じでしょうか。実感として。教祖の神様がおっしゃるように、「神の中をわけて通りおるようなものじゃ」と。そうゆう実感。ばさばさと藪の中を、藪を分けて通る時に、その藪が、ざわざわざわざわと、音をして、そこを通っていくような実感。
 そういう実感が私どもいつも生き生きとして、神様を身近に感じさせて、それに神様のそういう働きに、応えまつらなければおられない躍動的な心がです、ご用になってくる、家庭生活になってくる、家業の行になってくるということになったときに、信心はほんとの信心の有り難さ。いわゆる信心の値打ちというのは、そこのところまでゆかなければ、ほんとの値打ちはないのではないかと思うのですね。おかげ頂きました。